屋久島で癒された後、鹿児島に戻った。
鹿児島市内はもうすっかり春めいて陽気に包まれ、島津家や西郷隆盛縁の地を訪ねたり、焼酎や黒豚に舌鼓を打ったりして過ごした。
でも、今回鹿児島で圧倒的に印象に残ったのは知覧、絶対に行った方が良いとすすめられて訪れた特攻平和会館だった。太平洋戦争末期に特攻隊員としてその身を捧げた兵士たちの遺品や関係資料が展示されている。肉筆の手紙や遺書、そして壁中に飾られた写真。観ている間中涙が止まらなかった。鹿児島市内からバスで片道80分も掛かったけれど、足を伸ばして本当に良かったと思う。
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お母さん江
幼い頃から思えば随分と心配ばかしおかけしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。
眼を閉じると子供の頃のことが、不思議な位ありありと頭に浮かんで参ります。
悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼い頃、「今日の良き日をお守り下さい」「今日の良き日を有難うございました」と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。
今日になり本当にあの頃からお母さんの教育がどんなにか新平の為になった事でしょう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をおかけしたり。
苦学と言えば、家を出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにかかえりかった事かしれませんでした。
お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれから余り家に居る事もなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかった事だけ残念です。
軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時、あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂、わざわざ来なくても良かったのに等と口では反対の事を言って了ったりして申し訳ありませんでした。
あの時お母さんと東京を歩いた想い出は極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。
あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が祀られるのですよ・・・・。手をつないでお参りしましたね。今度休暇でかえった時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。
去年の時もそうでした。
佐藤新平曹長「お母さん江」
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二人で力を合せて努めて来たが終に実を結ばずに終わつた。
希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れてゐた“時期を失する”といふことが実現して了つたのである。
去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊直接取巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処を変へつゝ多忙の毎日を送つた。
そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書き度い、書くことはうんとある。
然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。
あなたの御両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。
至らぬ自分にかけて下さつた御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがたうござゐました」と最後の純一なる心底から言つておきます。
今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。
常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることゝ信ずる。
然しそれとは別個に、婚約をしてあつた男性として、散つてゆく男子として、女性であるあなたに少し言つて征きたい。
「あなたの幸を希ふ以外に何物もない。
「徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。
「勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
穴沢は現実の世界にはもう存在しない。
極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。
純客観的な立場に立つて言ふのである。
当地は既に桜も散り果てた。大好きな嫩葉の候が此処へは直きに訪れることだらう。
今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちょつぴり欲を言つて見たい。
1、読みたい本
「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2、観たい画
ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」
3、智恵子。会ひたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑つて征く。
昭20・4・12
智恵子様
利夫
穴沢利夫少尉「遺書」
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